イメージワークの及ぼすマイナスの効果
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hal>あまりも当たり前すぎて気がつかない「不思議 wonder 」があります。まずペンをとりだして目の前に持って来てください。それを最初は右目で見てください。「何本のペンが見えますか?」
star>「一本です」
hal>「次に左目で見てください。今度は何本にみえますか」
star>「一本です」
hal>「それなら両目をあけて見てください。何本見えますか」
star>「もちろん一本ですよ。どこが不思議なんや。変な人!」
hal> 「なぜ二本に見えないのでしょうね?ビデオカメラを二台を並べて、右側のカメラのスイッチをいれると、モニターには一本のペンが写ります。右を消して、左のスイッチを入れると、左には一本のペンが見えます。二台のビデオカメラのスイッチをいれたら、ペンは二本ですよね。一本にはなりませんよね。ところが、人間の眼ではいつもペンは一本に見える!視覚(見るという機能)はすごい( wonderful! )ですよね。感動しませんか?」
star>「そんなのは誰もができる!すごいとは、普通に出来ないことだ」
hal>「はい、では、そういうことが出来なくなった人の事を話しましょう」
star>「そうしてくれ」
hal>「ギラン・バレー・フィッシャー氏症候群にかかった人は、あらゆる随意筋肉が動かなくなり、話すことも眼球をも動かすことが出来なくなります。米国留学中の事ですが、友人がこの病気になりました。UCSF大学病院の病室から電話がかかってきて「身体は動くようになったが、モノが二重に見えるようになったままなので。なんとか東洋医学や整体で何とかならないか?」出向いていって色々試したのですが、ある部位を押していると像が一つに見えかけるだけで、完全には治りませんでした。その後「治りました」と電話がありました。回復する前に「サンフランシスコ市内に路上駐車していた車をパルアルトまで返しに行かなければ」と言っていたので、「どうしてもなら、片目で運転か?やめた方が」と伝えておいたのです。「運転する時に片目で運転していったのですが、片方がしんどくて、時々開いたりしていた。必死になって運転していて、ようやく着いた。次の日の朝起きたら、モノが一つに見えるようになっていた」という事でした。
star>「じゃあ、あんたが治したんじゃないな。たいしたことないな」
hal>「運転している間に、眼の動かし方のプログラムがよみがえったのです」
star>「運が良い奴ちゃな」
hal>「二つの眼で見て、モノが一つに見えるのは、脳がいつも自動的に調整しているのです。新生児は眼球をバラバラに動かします。一つに見えるのは産まれた日から、あなたの脳が学習して来た結果です。寝ている時(REM睡眠)には、眼球はバラバラにも動いています。
star>「そんなん知らん。わしは自分の目で(自分の目)を外から見たことはない。鏡があっても、寝てるときは眼を閉じているからな。あんたは、寝てるときに自分の目がバラバラに動いたのを見たのか?」
hal>「見たことはないけども、私も二重に見えたりすることがある。真夏のサウナ状態の車に乗り込んだ瞬間に、暑さの余りめまいに近い感じがして一瞬のあいだ眼球がバラバラに動きモノがにじんで見えることがあります。あるいは深い瞑想にはいった時に、身体が全く動かない(いわゆる金縛り状態)になる事もあります。それを次第に目覚めさして行く。離れている眼が連動してゆくのを感じます。今では、こうして両方の眼を広げたり狭めたりできます。感覚をコントロールする段階(プラティヤハーラ)のヨガをする人は出来ますよ。」
star>「カエルみたいな奴ちゃな。そんなんなんかメリットあるるの?」
hal>「イヤ、別にありません。前号で、それぞれの眼にはモノが見えない点(盲点)がある事を書きましたよね、眼が二つあるから、見えない所をカバーしてる。」
star>「都合の悪い事は、ケロッと忘れる主義での」
hal>「ケエルは、いえ、人間も二つの眼でものを見ることにより、モノの距離や動きを測っているのです。でも、面白いことに、カエルは動いているものしか見えないのです。
star>「どうして、そんなことが判るのや?あんた前世はカエルやったのか」
hal>「いや、暇?な科学者がおって、カエルの目の前に、精巧な偽物の虫を動かしたり止めたりすると、動いている虫には舌をのばして食べようとするが、動いていない虫を食べようとしない事を調べたのです」
star>「それは動物いじめやがな」
hal>「ところで、あんたは自分の写真いつももってる?」
star>「そんなもの持ち歩いてないよ」
hal>「へえー、あんた運転してきたやろ?ひょっとして無免許なんか?」
star>「とんでもない。ここに免許ちゃんと持ってるよ。見てみいな」
hal>「ここにあんたの写真がついてるでしょ」
star>「こんなん写真じゃないよ。私の顔じゃない。全然似てない」
hal>「いやどう見ても馬や鹿には見えない。木村拓哉にも似てない。あんたや」
star>「そやけれど指名手配写真みたいに人相ゴッツわるい」
hal>「それは、カメラのレンズが一つやからや。それも近い距離から写すから、崩れて見える。たいていはデブに見える。小さなカメラで集合写真を撮ると端の人が超デブに写る。両目で見るのと片目の違いです。カメラのフイルムは平面だけど、人間の眼の光を感じる網膜は眼球の内側に並んでてる。卵の内側の薄皮を広げても絶対に四角にはならないでしょ。それに右と左の像を合成しているから。自分の写真を嫌いなのは漠然とその違いを感じているせいや。」
star>「腹減ったから、なんか食べに行こう」
ホリスティックな視点でイメージを考えるということは、人間の他の感覚器官・認知機構とのつながりの中でイメージワークを取り上げると言うことです。言い換えると、★イメージのもつ可能性と能力を育てる事、同時に、★聴覚・空間方位感覚(キネティック)・味覚・臭覚など他の感覚機能、★それらにつながる心の働き(思考・善意ある柔軟な意志・感情・インスピレーション)を育てるように組み立てる事です。この視点がないと「イメージを使った洗脳」や「イメージを使った暗示療法」になってしまいます。あるいは、もった違う世界観の人と交流できない孤立したカルト的人間を育てる事になります。
★これは統合心理学(サイコシンセシス)の視点ですが、原因を見つけて悪いところを治す「治療やセラピー」という過去志向の態度から脱同一化して、「ライフ(いのち・生活・生き方・人生)全体の良さ(wellness)をめざす」という未来志向に意識の向きを転換することです。言い換えると、人間のイメージ(絵・彫刻)・音楽・身体表現の能力を、特定のセラピー(治療・癒し)の為につかうことは「後ろ向きに馬に乗る事(米国の古い表現)」です。同じ事を、向きを変えて「深い喜び・高み・安寧を実現する為」に「人とつながりの為」に使うという[未来志向でいる]方が望ましいという姿勢です。ここで言う未来志向とは、都合の良い利己的未来ではなく、病気にもなる・老いて弱くなる・心身の障害を持ちながら死を迎えるという個人的な命の終焉、個人を超えて伝えてゆく事、地球(自然環境)の為に生きる事を意味します。イメージワークも含め未来志向の統合のためにすることの一つ一つは、すごく簡単な事です。
★だれか落ち込んでいる人がいた「どうしたの?何が原因なの?」と言うのと「夕空がきれいだね。明日は良い日になるみたいね」あるいは「きれにな花だよ。そばに置いて毎日お水をあげて」とお花の鉢をプレゼンスする事の違いです。
Hal>「おいおい、起きろ。テレビを見ながらまた、居眠りして。風邪ひくぞ!」
star>「うにゃうにゃ、あれ、もうこのサスペンス終わりかけてるぞ。なんでこいつが犯人なのか全然わからんわ。最初の十分ぐらいで話の中身が全然判らん。昨日の台風のせいや。怖くて、なかなか寝られんかった。」
Hal>「おいおい、台風のセイにしちょる。先週も、このテレビ居眠りして、話がわからんかったやないか。」
star>「過去は振り返らない!前向きに生きようね。寝てしまうと良いこともあるよ。昨日の台風で家がミシミシと揺れて、いつ家が壊れるかと思うと、生きた心地なかった。それが知らない間に寝てしまった。気がつくと台風は、ワープして東北まで行ってしまった。」
Hal>「ワープしとったんと違う。アンタが寝ている間にも台風は時速50キロで北上していたんや。」
star>「わしにとっては、どうでも良いことや。寝たら台風がなくなってたという事の法が大切や。風邪ひいた時も、クスリを飲んで寝たら、朝起きたら治ってとる。」
Hal> 「まあ、、アンタ、、という、、人は、それぐらいいい加減や!」
star>「なんやて、わしがいい加減やて?ケンカ売るのか?いつでも、あいてしたるで。」
Hal> 「アンタがいい加減やなんて言うてないよ。まあ、あんた、人というのはそれぐらいいい加減や!と言うたんや。まあ、一杯のみいな」
star>「アンタもええ加減やと言うことか。わしのこと馬鹿にしたら承知せええへんよ。」
Hal>「人間の眼はしっかりと開いていても、実は、見ているのはホンの一瞬だけで、しかも、全部見てるのではなく、ほんの一部だけや。見たいモノを、ちらっとしか見ていない。人間の脳は、かなりの「さぼり屋」「手抜きの天才」なのです。米国の海兵隊のヘリコプターを使った救助隊では、装備の点検を三回させてるそうや。三回目に、装備がない事に気がつくこともあるそうや。」
star>「あんた、文章を四回も五回も読んで、まだ誤字脱字が見つかる言うてたな。アンタがウッカリ者なのを、ごまかす為に言うてんやろ?」
<< 見たいモノしか見てないから、良いこともいっぱいある>>
Hal>「しかし、手抜きでさぼりの脳やからこそ、良いこともある。まず疲れない。混乱しないことや。」
star>「混乱してるとは思わん。アンタの顔が藤原紀香に見える訳ではないし。」
Hal>「じゃあ、私の顔にほくろがいくつある?」
star>「ほくろ?アンタ、ほくろなんかあるか?ほんまや、いっぱいある、シミもある、アンタの顔見れば見るほどキタナイ顔やな!」
Hal>「キタナイは余計や、私の顔なんていつも見てないのや。顔はあるもんやと判断したら、見てないのや。「コラ!」とか大声を上げたりした時に、表情を確認に行くぐらいで普段は見ていないのや。」
star>「そやなあ、バスや電車の中では、若いお姉ちゃんの顔は見るけども、オッサンの顔なんか見たことない。見たいモノしか見ていないという事やな」
Hal>「そうなんや、見慣れている者ほど、見ることをさぼるものや。米国の友達が面白い話をしてくれたのを思い出した。友達が兄さん、お父さんとお母さんと一緒にレストランに行った時には、お父さんがトイレに急いで生きたくなり、「先に席についておいて、済んだらゆく」といってトイレに駆け込んだそうです。すませてウェイターさんに、「内の家族はどこにいるか」と聞いたら「三人連れですか?何組もこられました。奥さんの洋服の色は?息子さんの服の色は?」「いや、ゃゃ、覚えていない。」「ジャア、髪の毛の色は?」「黒」「では、探して参ります」 しばらくして、「お客様、ご案内します。こちらです。昔、髪の毛の黒かったレディと息子さん二人です」と、これは夫婦げんかの種になるけど。あんた、天井を見てみ?」
star>「なんかあるのか?」
Hal>「そうやない、アンタ、いま着ているシャツの色は?靴下の色は?アンタの奥さんの今日の服装は?子供の服装は?」
star>「そんなん、ようわからんなあ。知らん。確かに、眼をあけていても見ていないのが判った。そやけど、アンタのはわかるで。グレーのセーターにジーパンに茶のベルトに白の靴下に、ブルーのスニーカーや」
Hal>「ぎょ、なんで判るんや、」
star>「あんた、いつも同じ格好しとる。たまには、違う服を着たら」
Hal>「、、、、、、、、」
☆小学生・中学生は、もともと空想する傾向にある。不注意にイメージワークを行うと、イメージの世界に閉じこもってしまう傾向が強くなり、外側で行われている授業や作業に参加できなくなる可能性があります。それなりの準備・配慮が必要である。(それがこのシリーズを書いている動機でもあります)
☆妄想や分裂症の人・それに近いボーターラインの人・空想に時間が過ぎてしまい社会生活が苦しい人・あるいはアート系の人がいます。もともとイメージは豊かな人達です。イメージの世界に内向けにドンドンと進んでしまうと、外の社会に適応が難しくなくなる。そういう人にたいしては「その体験をうまく安全に表現すること」をワークして「外の世界の体験」と「内なるイメージの世界」の違いに気がついてもらう事、そして外の世界との共存が、セラピーとしてのイメージワークになります。そうでないと、社会的に孤立(個人的引きこもり or カルト化)するか、入院させられてしまう事にもなりかねない。
☆他の感覚(方向性と動きのある音、風・冷たさ・暖かさ・味・匂いなど)と結びつかないイメージは、たいていはテレビ・映画などマスメディアなどから得た偽物のイメージです。
☆イメージワークは決して本物の体験の代用には為らない。見たことのないイメージは出来ない。
幼い時や小中学校ぐらいでは、本物を体験する事の方が大切である。体験した事をイメージワークして、より深い学びにすることは出来るが、イメージワークですませることは良くない。(教師自身には体験があり、学ぶ側もイメージ出来ていると誤解して進めてしまう。)
☆これはイメージワークが出来ないと言うことではない。イメージの力を高めるように、組み立てればいいことである。例えば、外で体験したことを、まず、地図を書いて、その場所をイメージし、そこで見たことを絵に描く。(場所の位置と見たモノとのつながりは必要である)これはよく見る力を育てる力を養うことになる。カメラを使うのはイメージの力を育てることにならない)そしてそこで、体験したこと、友達と話したこと等を思い出す(プレイバック)というワークは可能であり有効である。また「今度はどうなっているか」などと「未来の自分の活動しているイメージ」をつくることはセルフ・エスティームを育てる上でも大切なことである。
Star>「この前社内新聞に載っていた経理課の女子社員に『あんた写真映りええなあー』って言ったら、すごい、嫌な顔をされてん、なんでやろ。」
Hal>「それは、一般意味論で扱う言葉の宿命に引っかかったのが一つ。Starさんが『本人は美人ではない』とは言っていないにもかかわらず、暗黙に、『写真ではなくて本物は、写真ほどたいしたこと無いと言われた』とその人が受け取ったのや」
Star>「そうか、写真でのうて、この目でみても美人やとおもてるのになあ」
Hal>「あんた自分の免許の写真自分やないと言うたの忘れたか?人間は両眼で見るけども、写真はレンズ一つを通じてみると説明したけど、他にも理由がある。」
Star>「そうやな、そうやった。でも、タレントさんや俳優さんの写真はきれいやないか。おんなじ様に誉めたつもりやのになあ。女心は解らんなあ」
Hal>「確かに!タレントさんや俳優さんの写真は、プロの写真家が特別な撮影の仕方で撮るからや。それに撮りながら『きれいや、きれいや』と誉めながら撮る。そしてきれいに撮れた写真しか見せない。それでますます、『私は美人や』『有名な写真家やから私の美しさを写してくれる。できあがる写真は全部キレイ』と思いこんでいるから文句はでないのや。俳優ではなくてプロのモデルさんはそんなことを知っているから、自分はどの角度からみるときれいな写真が見えるかを知っている。「汝、汝を知れ」という言葉をしっとおる。だからそれなりにポーズして写させてくれる。」
Star>「そうやなあ、普通の女の子は、素材が悪いのに、きれいに撮れてへんいうて文句ばかりや。自分の顔を冷静に正確に見るべきや。」
Hal>「それが、あんたも含めて、自分の顔を自分の眼では、見られないのや。ちゃんと自分の顔を見た人はいないのや。」
Star>「あんた、失礼やな。ワシでも毎日、歯を磨いているし、ヒゲもそっとるで、髪の毛の手入れもしてる。その時に鏡で自分の顔を見ているのや。その点、アンタは、しょっちゅうヒゲも剃らんとワシの前に現れる。髪の毛もバサバサのままや。アンタより私の方がお洒落やで。もうちょっとましな格好せんかい。」
Hal>「、、、、、、、。まあ、お洒落に関してはそうやな。でも、アンタ、『鏡で見る通りの顔』が『自分の顔』と思ってるの?『鏡で見る通りの顔』が『自分の顔』ではないのや。アンタ以外の人は、違う顔を見ているのや。」
Star>「また、なんか解らなん事を言いだした。美人の顔が、他人にはブスに見えるのか?」
Hal>「逆やいうのは美人がブスに見えるのやない。鏡で見ると右と左が逆に見えるのや。そやからアンタの顔を、アンタ以外の地球上の人は、左右逆に見ているのやで。アンタの髪の毛の分ける方向は、他の人から見たら逆にながれている。あんたの前にビデオカメラを置いてあげる、そして前にモニターをつけてあげる。そして横に鏡を置くから、髪の毛を梳かしてみ。」
Star>「ほんまや、ワシが髪の毛を右から左になでたら、ビデオでは左から右に動かしている。ワシが見るモノはちゃんと見えるのに、鏡で見ると世界は反対なのや。なんでこんな単純なこと気がつかなかったんや?」
Hal>「あんただけやあらへん。たいていの人は、気がついているようで気がついていない。そやから、いつも見慣れている自分の顔は、鏡の自分で、写真はたまにしか見ないから<写真の自分の顔に違和感を感じるのや」
Star>「なんでちゃんと写る鏡がいままでなかったのやろか。それを作ったらノーベル賞ものや」
Hal>「日本人が発明したいるよ。簡単に作れるけども、すごく重いのや。普通の鏡を直角に合わせて、その前にガラスを張って、ガラスと鏡の間に水を入れるだけや。そやけどもどんだけ重いか解るか?それに割れたら大変や。それと普通の鏡を見慣れているので、お化粧直しは出来なくなる。アンタが右手あげたら、写っている自分は反対に手をあげる。まだ、写真と美人についていっぱいあるけども次にします。