臨済宗の中興の祖といわれている『白隠禅師坐禅和讃』は、臨済禅と はどういうものかという解説文です。 

解説 岩崎正春 hal4life@joy.ocn.ne.jp

大乗仏教では人間は「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という6つの世界で輪廻転生するという説明ですが、実際に死ななくても,生まれ変わらなくても、人間の意識は、どの世界にでもいられる可能性があると考えます。

  つまり、6つの世界の可能性 (地獄の苦しみや、ガキの様な飢え、動物のような本能、修羅のようなて戦いと敵意、人間としての喜怒哀楽、天にに住む仙人や天人の美しさと平和な状態)を行ったり来たりしていると理解出来ます。

誰もが、自らの内なる意志(発心)と行動によって、地獄の鬼のように人を殺すことも、ナイチンゲールの様に傷ついた人を癒やすことも、いつでもどこでも、どちらでもが可能であるという事です。

その上で、大乗仏教の臨済禅の白隠は

「謡うも舞ふも法の声、ココが蓮華国であるとこのからだが仏様であり」 と仏教を説いています。

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以下が白隠禅師坐禅和讃解説です太文字とアンダーラインがほぼ原文です。其れ以外が解説として加えました。


『白隠禅師坐禅和讃』


衆生とは、本来は仏のことであります。
それはあたかも「水」と「氷」の関係のようです。

衆生以外に仏はありません。
衆生は、近くを探さないで、遠くに探しに行ってしまう様な浅はかな事をします。
例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいるのと同じです。
何でも持っている長者(お金持ち)の子供が、家をでて乞食をするのと同じです。

   本当の仏の心は、「いつも内側」にあります。
仏教では、6つの世界「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という6つの世界で輪廻転生する。と説明しています。

人間の意識は「地獄の痛みの苦しみ・餓鬼の飢え・畜生の本能や欲に支配され、修羅の戦いや怒り・人間の喜怒哀楽・天上の喜び」という6つの世界を巡っていると考える事も出来ます。

現実に、心は心のありようの世界(状態)にいる事が可能ですし。どの様にでもいられるのです、というのは、

「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という世界は、

「分別するという思考」が作った心の闇路です。

その闇路から闇路を巡り続けているのが人間です。

こういう闇とは「本来は実体が無い」という事に気が付かないといけません。

「自分が、無知であった為に作ってしまった闇路に迷って死んだり産まれたりしているという事」に気がついて、そういい生き様から、いつかは、そこから自由になるべきてす。


大きな乗り物(大乗の教え)の中にある方法の一つの「座禅による禅定」とは、褒めるに値する方法です。

大きな乗り物(大乗の教え)の方法には色々あります。
  布施・持戒と言った諸波羅蜜
  ((六波羅蜜=布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)があります。
 「念仏を唱える事」
 「懺悔=間違いを悔い改める事」などたくさんの善行があるが、

どれも大きな乗り物(大乗の教え)に帰することになります。

その中でも,座禅をして功をなす人も、他の修行と同じように、積み上げてきた沢山の罪が滅びます。

座禅している境地の時には、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣など、本来はどこにも存在しなくないのです。
(修羅、人間、天の境地)すらもなくなります。
極楽浄土とは遠くにあるものでは無い。

この大乗の教えを耳にした時に、

「良いことを知った」と心から涙して喜んで賞賛している人は、
その心にはすでに限りない福を得てしまっていると言えます。


それだから、
自分の意志で座禅して、禅定に入り、意識を回向(心の向きを本来に直す事)して、
(言葉に依らないで)直接的に自性(人間の自然な性質=本性)にたどり着いたときには(証すれば)、

自性(人間の本質の性質=本性)というモノは、観察すればするほど、
実は、こうだと言い切れなくなって来て、最後には、
人間には特定の性質なんかはなく、
「本来は無性」という事にであいます。

この時は、言葉の遊び(言葉での教え=経)を離れた境地にあります。

この境地から見ると、
「原因も結果も一つのモノである」という門がすでに開かれてしまっている事を知ります。

その時には、第二の道も第三の道も消えて、「本来は一つ」という「本道」に直ってしまっています。


無相とは、相(認識)なんか無いという認識法なのだから、

「行くという事でもないし、帰るという事でもない。どこか余所に行く事でもない」のです。

無念とは「良い念とか悪い念とか分別しようとする念」が起こらない状態です。

歌うことも踊ることも何をしていても、
    する事すべてが仏法そのモノのになります。

仏法が、歌声になり踊りになり、行為そのものになり、現前(「ココ」に実現)します。


心はそういう境地(三昧)になり、心には礙(気にかかること)がない空がひろがり、

4つの智慧のまあるい月(満月=一杯に満ちた心の状態)が冴え渡ります。

4つの智慧とは全体的(ホリスティック)な視点です。

1.大円鏡智=大きく丸く全体を智る智恵です。
2.平等性智=上下で見るのではなく平等であることを智る智恵、
3.成所作智=モノを作り上げる事を智る智恵、
4.妙観察智=微妙な物事を微妙な所まで観察し智る智恵


この智恵に充ちた状態にある時には、外側に何をもとめる必要があろうか。
(内側では智恵に充ちて、何でも分かるので、他からの知識を求める必要がなくなります。)

あらゆるものが消滅してしまい、

本来の姿がありのままに表れているのに気が付く。

そのままのこの場所が蓮華国であり、そのままのこの身が仏である
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----------以上--------------------------------
以下、元の文です。
衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時
讃嘆随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり
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初期の仏教の流れの上座仏教と大乗の仏教の違い
 上座仏教はスリランカやビルマの仏教で、出家の仏教です。
 世界を四苦八苦(しくはっく)として捉えています。
 根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、
  あと四つの苦をあげています。
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。

そして仏教徒、沙門(出家僧も在家も)は八つの正しいことをするように教えられています。
この八つの道を記憶しましょう。その八つとは次のことです。

正しい理解           (正見)
正しい目的、または思考      (正思惟)
正しい言葉           (正語)
正しい行為           (正行)
正しい生業、または仕事      (正業)
正しい努力           (正精進)
正しい気づき          (正念)
正しい集中           (正定)


大乗仏教は、在家 大衆や衆生の為の仏教です。基本的には上の苦や八正道を受け継いでいますが、
人生は必ずしも苦とは捉えていません。苦ではあるけれども、大衆(衆生)の心の本性は、同時に歓喜にも満ちた世界として捉える事が出来るようになれるいう視点です。

良しきも悪しきもみな打ち捨てて
生池の白池で月日を送れ
さわりゃ濁るぞ谷川の水
問うな学ぶな手出しするな
これが誠の禅法じゃほどに
見ぬぞ仏ぞ知らぬぞ神ぞ
白隠禅師

統合心理学(サイコシンセシス)では一人の人間の中には、さまざまな性格の動物や人間達(自分サブ・パーソナリティー達)がいると理解しています。

人間は、受胎から誕生までの間に、生物の進化の過程をおさらいして生まれてきます。下の方から、魚の脳、は虫類の脳、馬のような哺乳類、猿の様な哺乳類、そして人間というように階層化されています。だれもが魚・は虫類・馬・猿のような本能をもっています・誰もが多重人格なのです。

自分の内には大勢の違った性格の人たち住んでいます。(内なる動物、赤ん坊、幼児、少年、大人、親、老人、高次元の自己、母性や父性とよぶ様々なサブ・パーソナリティー達)です。実は,可能性としては、人の内側には仏教で言うように、鬼や悪魔の様な部分や、動物的な本能に動かされている部分や、暴力性や悪意に満ちたサブ・パーソナリティーもいると見ています。

まず、自分の中のすぐれたサブ・パーソナリティーを知り、頑固で欲求不満で傷ついた未熟で危険なサブ・パーソナリティーをも見つけて助けてやる。全体としてのバランスをとってやることが成長の始まりです。

サブ・パーソナリティー全員の願いを聞き、かなえ、育てる事が全体の調和につながるという人間観を持っていまする