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「ライフ(いのち・生活・人生)」の為の

メールリスト「ホリスティック」

Part2.

ホリスティックな教育・健康・医学に興味のある人達の為の意見交換の場として、メールリストによる対話が続いています。Part2.のタイトルは「ライフ(いのち・生活・人生)」です。参加希望の方は

hal4life@theia.ocn.ne.jp まで。

(バックグラウンド写真=ウメイロモドキ 撮影 パラオ Blue Corner 2000/11)

 

 

 目次

はじめに

●インターネットという巨大な電子回路(インターネット)が、世界中を巡りそして個人の所まで配線されるようになりました。普通の市民が、自分のコンピュータや携帯端末を使って、巨大メディアや企業などの組織と全く同じ立場で、「(thoughts)=(情報・言葉・考え方・思考)」を発信する事が出来るようになった事は、今まにはなかった事です。インターネットは、「みずからの意図」でつなげれば、個人の意識にまで届くし・届けることができます。「蜘蛛の巣のようなつながり(web)を通しての「thoughts(情報・言葉・考え方・思考)」の共有がおこる。つぎに、「ライフ(いのち・生活・人生)」のレベルでの人と人の「つながり=relation」に発展し、さまざまな、人間の営み(events or What-is-going-on)となってゆく事が可能です。この事は、このメーリングリストでも実証されている事です。「インターネットがなければ、決して出会えなかった人とつながる事が出来ています。」

21世紀の選択

●いままで、一般意味論の紹介として、言葉と人間の行動について触れてきました。あと一人が成長する過程で、どのように「(thoughts)=(情報・言葉・考え方・思考)」と接するようになるかについてふれましたが、その悲劇的な側面から学ばないといけません。歴史上で、十字軍に志願した若者、イスラム諸国のジハードのゲリラ戦士、大東亜平和圏を夢見た若者、特攻隊員、文化大革命で活躍した紅衛兵、などなど、純粋に 「(thoughts)=(情報・言葉・考え方・思考)」を信じて行動していった人達です。やはり、「地図は現地ではない」という例えに学び、現地をみる事を忘れないことですね。

●21世紀はだれも体験してはいません。つまり、地図がない世界をすすむのです。いつも目的別(個人のライフ(いのち・生活・人生)スタイルにあった、自分の時代の地図をつくる必要があるのではないでしょうか。自分が何をしたいという事が、ハッキリするに従って、混沌とした情報化社会の現地が見えてくるのではないでしょうか。それにしたがって、次の目的地にむかって安全な航海を準備し、嵐や時化などの障害さえも、備えて進めば、大変な時代でも、喜びを感じながら、進むことは出来るのではないでしょうか。

●これからは、一人ですること、家族ですること、仲間と一緒にすることなど、さまざまな「人のつながりたか」がうまれてくると思います。ちがった「(thoughts)=(情報・言葉・考え方・思考)」の人が集まって21世紀を生きていくのですが、「(thoughts)=(情報・言葉・考え方・思考)」の違いやを分析したり批判をはじめると、お互いが、防衛的態度になりがちです。それよりも、●「ライフ(いのち・生活・人生)」のレベルで交流を重ねていけば、「あの人達の考えていることは理解はできないが、信頼しても大丈夫である」という人間関係を築くことで、共存の道が探せるのではないでしょうか。

 

                         提案です。

2001年になった今、このホリスティックというメーリングリストのみなさん、みなさんにとって、どのような時代にしたいか、希望を書いてみませんか。いままで書き込みをしていない人も、coming outしてみませんか。このリストに登録されている人達の職業や専門分野をみてみると、必要に応じて力をあわせれば、すごい事が出来る人達ばかりです。お互いに助け合うことによって、両方ともメリットを受けるwin-winの関係が生まれるのではないでしょうか。

uploaded Jan. 08. 2001

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 From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0251] 「生命をテーマに」は良いですね、 To: ml-holistic@cfnode.com

ホリスティック・メーリング・リストのみなさん新しい世紀を祝いましょう

時計の時間がすすんだら、「新年になりおめでとう」というのも他の命達と一緒に「今」生きていることの証ですからおめでたいことです。

 

さらに、みずからが、「生命=ライフ(いのち・生活・生き方・人生)」に関わりもって、祝うことができたらすばらしいこと ですね。

 

☆コージブスキーは人間を AN-ORGANISM-AS-A-WHOLE-IN-AN-ENVIRONMENT と捕らえ ました。彼は、8つの単語で表現できるものを、ハイフン − をつけて一語として 扱おうとしていたのです。わたし流に、訳しますが、「一つの(地球という)環境の 中に(ほかの動植物)と一体となっている全体として一つの生き物」となります。●彼の時代から後に生まれた生態学的な生命観であるガイア意識「そのもの」ですね。

    あまり、抽象的な生命論にならないように身近な所から書き込みをしませんか。幸いにも、このメーリングリストには、すばらしい人材がいます。 たとえば、食べるものと健康でもいいし、

☆ここには、もう一人の平野さん、平野勝巳(ジャーナリスト)がいます。平野さんはじっくりと時間をかけて、生命を大切にと頑張っている17k農業グループの成果を取材し、「安心、食生活宣言」という本にまとめています。株式会社エイチアンドアイ( http://www.h-and-i.co.jp/)です。

●まったく違った視点で、取り組み方もちがう人達が、それぞれのすばらしい成果をあげている。

    「生命」のすごさです。

 

平野勝巳さんは、人間の意識のつながりなどについての本も書かれています。 ぜひ、著作をみなさんに、紹介していただければと、お願いします。

 

私は「今」までの書き込みでわかるように、生命を語る時に、コージブスキーにならって「ライフ(いのち・生活・生き方・人生)」とカッコをつけて書いています。

☆英語では、生命も生活も人生も ひとつの言葉 ”life”なのです。区別していないというより、一つのホリスティックな言葉なのです。 生命(いのち)と生活と人生を切り離して考えないという願いでこういう使い方をするようになりました。

☆翻訳をしているときに、lifeという言葉が、日本語ではちがった言葉になってしまうので、違和感を感じていたので、たぶん、去年ぐらいから積極的に使うようになりました。

☆コージブスキーの organism も、生命体の別語です。自然農法は organic farming という言葉を使っています。オーガニックは、生命のあるものです。

☆キリスト教や儒教の倫理観の強い人は、眉をひそめるかも知れませんが、

セックスの時の快感「オーガズム」も、同じ仲間の言葉です。日本語に訳さないで使っていることが多いようですが、「生命体の歓喜の躍動」と捉えています。

☆「ライフ(いのち・生活・人生)」が跳ね回る(エラン・ビィタル)の時代をめざして

(エラン・ビィタル)は、フランス語の哲学用語で、「生命の躍動」です。

ちょっと意味論に戻ってしまいました。

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平野慶次さんの書き込み

MLに参加の皆様へ

 新世紀を迎えることの喜びを皆さんと分かち合えることを感謝致します。 この新世紀のスタートが巳年で始まることに始源の不思議を感じて居ります。アダムとイブが蛇にそそのかされ知恵の木の実を食べて以来、生老病死の歴史が始まったという聖書の世界を想起してしまいます。そんな新世紀のスタートの年に我が家では、6月に家族が一人増える予定です。ちょっぴり始祖の気分です。

 昨夏以来特に体調を乱していましたので、是非今年は調身と調息に心掛け、家族と共に過ごしたいと考えて居ります。そんなわたしたちを暖かく支えて戴けますようにと願って居ります。

 

 今年も宜敷くお願い致します。

 

P.S.誕生をめぐる生命の話しもしたいなと思います。生命をテーマに何か皆さんの書き込みを楽しみにしています。一個の生命はそれ自体ホリスティックでありながら、ホリスティックな全体ではあり得ない。「地図は現地でない。」に通じるような気がします。アイデンティティーを超えるアイデンティティーの糸口もこの辺りにありそうな気がします。

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

平野 慶次

e-mail: 1-yoshi-hirano@mpd.biglobe.ne.jp

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Rie Nagai

E-mail cosmos_sin@hotmail.com

tel&fax 0774-38-2121

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2ヵ月ばかり前に入会させていただいてから,ずーっとROMしていました永井理惠と申します。ホリスティック医学協会にも同じ頃に入会しました。京都市で保健婦をしています。よろしくお願いします。平野さんのメールに釣られて出てきました。

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜* 平野 慶次さんの書き込み*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

生命の誕生の神秘に何度も立ち会いました。特に感動的だったのは、五人目の時でした。産道を旋回しながら出てくるのですが、空気に 触れる瞬間に緑っぽい色から青っぽい色に変わるのです。そして、産道を通過するた めに縮められ合わさった頭頂骨が花が開くように、フワァーと開のです。正に生命の 開花の瞬間だと思いました。誕生に纏わることから育ちに関わる ことへとどんどん興 味は広がるばかりです。

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜* 平野 慶次さんの書き込み*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

 なんて素敵な表現なんでしょう。でも,この状態を母親は見ることは出来ないのですよね。なんとしても残念なことです。こんな機会があったら是非とも立ち会うぞと決意させてくれた文でした。何を学ぶために子どもは私を親として選んできたのかなと時折考えるこの頃です。

Date: Mon, 8 Jan 2001 01:13:30 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0256] 命の誕生   and after To: ml-holistic@cfnode.com

永井さん書き込みありがとうございます。

出産のシーンは感動的なのでしょうね、

チャンスがくれば体験できるでしょう。

人間ではないのですが、去年、私は、念願のウミガメの産卵シーンを和歌山の南部(みなべ)の海岸で見学することができました、穴を掘って、涙を流しながら産卵する姿、感動的でした。

そして、もう一つの意味での感動とは子供の頃海洋映像で、ウミガメの産卵シーンを見て、こんな事は、私には出会えないだろうなあと、あきらめ半分以上の気持ちでいたのですが、四十年ぐらい経って、見ることができたのです。一つの子供の頃の夢が実現したのです。

 

☆海の中では、いろいろと感動的なシーンがありますね。誕生の瞬間だけではなく、

小さな魚が、大きな魚に一瞬にして食べられる、目の前の小さな魚が、瞬間にして消える

あるいは、お腹の減っていないサメは、鼻先に魚が来ても捕食はしないが、食べる時はサメが魚の群につっこんで捕食するのも、感動的です。

☆人間が生きてゆく上で、どれだけの生き物の命に依存しているのでしょうか、イメージしてみると、

☆おもちゃの噴水の上に、止まっているボール球のようですね。他の命(水)は、一番上のボール球(人間)を一瞬だけ支えている。決して同じ水が支えているのではない。

☆もっとも、人間が生態系の一番上になったのは、ごく最近の事のようですね。虎やオオカミやヘビやサメやワニに食われると言うことは、普通のことだったようですね。

そして、人間もいつかは、地球というより大きな生命体に帰ってゆく、

 

☆朝、起きて、生きていたらすごくうれしいことですよね、そして、ご飯をたべられて、気持ちの良い布団で寝ることが出来れば、ラッキーな日だったのですね、

これから産まれてくる子供たちにとって、どういうものを残せるか、どういう地球を残せるのでしょうか一抹ではなく、かなりの不安を感じます。

では、

Drifting Stonefish

Hal Iwasaki

Date: Mon, 08 Jan 2001 10:16:20 +0900

From: yoko nakano <yoko@jca.apc.org>

Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0257] 女神のこころ

遅ればせながら、皆様

あけましておめでとうございます。中野ようこです。今年に入って、みなさんの「いのち」に啓発され、また、岩崎さんよりMLにもどうぞ、と言ってくださってので、ご案内なのですが書き込みをさせていただきます。

 

私はアルテミスという名前で個人事務所を開いています。心の問題、環境の問題、からだの問題、

あらゆる「問題」が専門化してしまうと

ときどきわけがわからなくなってくることがあります。 (あんまり複雑なことは苦手です)

たとえば

「エネルギー問題」の専門家は「原子力は今はなくてどうする?」(なくてもやっていけると私は思う)

教育者からは「学校というシステムの中でカウンセリングまでやらなければいけないのか?」

(私には反論できないけれど、学校は何するところ、と思う)というように、自分の専門分野からの視点では私は決して反論できないほどの知識や情報をお持ちです。でも、私の中で何か違う、と感じることが・・・。人の「いのち」に立ち返れば、

そのことを論じることさえムダだと思うことがあります。

 

それで、「いのちを育む社会」をコンセプトに自分の納得のいく仕事を産みだせるよう、

個人事務所としてほそぼそと仕事をしています。

 

で前置きが長くなりましたが、その仕事に関連してのご案内です。

 

女神の画家で著名なアメリカ在住の小田まゆみさんの「ウィメンズ・スピリチュアリティが

日本に根付いていないし、これから女性性をもっと生かしていけるように」という思いから、昨年12月に『女神のこころ』(ハリー・オースティン・イーグルハート著現代思潮新社刊)を発刊することができました。訳者は矢鋪紀子(やしきのりこ)さんで、

彼女もすばらしい翻訳をしてくださいました。そして私もそのお手伝いで

「ハリーさんの出版記念講演会」を行うことにいたしました。以下が要項です。

(長くてごめんなさい。転載歓迎です。)

*・'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'☆。.:*:...:*::・'゜:*:・'゜     ハリー・オースティン・イーグルハート著       『女神のこころ』出版記念講演会          2001年1月19日、20日、22日 *・'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'☆。.:*:...:*::・'゜:*:・'゜

 

ハリー・A・イーグルハートさんの著書『女神のこころ』(矢鋪紀子訳、現代思潮新社刊)の邦訳書が発刊されたのを記念してハリーさんをお招きし、同書に掲載された女神のスライドショーや講演、そして『女神たち』(同社刊)の著者であり、女神の画家として世界的に著名な小田まゆみさんとの対談を東京と京都で開催いたします。

 

Date: Wed, 10 Jan 2001 10:42:13 +0900

From: yoko nakano <yoko@jca.apc.org>

Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0261] Re: 女神のこころ To: ml-holistic@cfnode.com

X-ML-Name: ml-holistic

X-Mail-Count: 0261

 

平野様、

こんにちは。

On Wed, 10 Jan 2001 02:42:21 +0900

平野 慶次<1-yoshi-hirano@mpd.biglobe.ne.jp> wrote:

 

> 中野ようこさんへ

>  こんにちは!初めまして!だと思いますが、もしお会いしたことがあったりしたらば(お会いしてても不思議と思えません)、お許し下さい。小田さんとは二度お会いしお話しさせて戴きました。昨年もお会いしました。「女神たち」の個展の折りでした。本も後日購入しましたが、「女神のこころ」のことは知りませんでした。情報をありがとうございました。しかし残念ながら当日は伺えません。小田さんに是非伝えてください。私たち家族が今年九人家族に増えることを。 そして会いたいな!!!と伝えて下さい。

 

京都の「テラ」での展覧会場でしたら、お目にかかっているかと。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。ご家族が9人というのは、にぎやかなことでしょう。まゆみさんは「女神のこころ」の講演会の後、京都市内のお寺で若い方たちと瞑想の会をされるそうです。私は翌日帰らねばなりませんので残念ですが・・・お伝えいたします。

 

ハリーさんの『女神のこころ』は見事な写真集+お話です。そこに載らなかったアファーメーションなどを講演会ではご披露いただく予定です。

 

でも、どうも私の感動することを

皆様にお伝えするのがとても下手なようで、困ってしまいます。

特に岩崎さんや皆様が

書かれるような明晰な文章は

読むのも一苦労というぐらい、

書くのはできません。

つまり不勉強の弁解、怠け者の愚痴ですね。

 

 

 

~*~*~* ~*~*~*~

中野ようこ

~*~*~* ~*~*~*~

ARTemis

http://www5a.biglobe.ne.jp/~artemis/

~*~*~* ~*~*~*~ ~*~*~* ~*~*~*~

Date: Thu, 11 Jan 2001 11:29:25 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0265] ようこさんへ 感動を伝えること To: ml-holistic@cfnode.com

X-ML-Name: ml-holistic

 

中野ようこさん

 

案内ありがとうございます。

 

感動をことばで伝えることは本当に難しいですね。

 

実は、私にとって言葉で伝えることは、二つの意味ですごくしんどいことです。こまかい理由は、他にもあります。

 

●●感動を言葉にすること●●

 

ホリスティックな体験や体の感覚などは、

文字にする事は、難しいですね。

たとえ、名文を書けたとしても、それは

「thoughts((知識・思考・想い)」であって実際の体験とは違う。文章(thoughts)で感動してしまうことがあるが、それは、時には危険なことです。

 

人々に感動をあたえる「語りや演説の名手」がいる、

 

「地図は現地ではない」

 

自分の現地を見つめて、実体験で感動して欲しいですね。

 

 

●●言葉を超えた意識●●

 

次に、最近私は、書き込みの量が増えているのと、解決すべき個人的もんだいで、

瞑想の内容が浅くなっているような気がします。瞑想が深くなると「言葉」を超えた所に行き、すごい静粛さ・しずかさ・安寧を感じるのですが、そこにたどりつけない、いっばい言葉が飛びだしてくるのです。

 

せいぜい、リラクゼーションにしかならない

 

こういう状況は、普通の人でも気がついていないだけで、体験していることはあります。

 

たとえば、気を失ったり、麻酔を受けていた説き、あるいはすごく深い睡眠から醒めたときに、自分がどこにいるか、今日はどういう日か、思考が動いていないのです。だれかから話しかけられても、返事はするけども、言葉がかみ合わない、

 

冷酷な世間体からの判断ではい「ボケ」とされますが、実は、言葉や思考から離れた一つの「悦楽でも」あります。

 

●ながい入院体験、瞑想ワークショップ、自然の中での休暇などでくつろいだあと、そう感じた人はいると思います。ぜひ、コメントください。

 

言葉が苦痛に感じます。話しかけられることが、すごく嫌に感じます。(よく似た体験は、寝かけているときにおこされる)ラジオも新聞も町から聞こえてくる言葉による騒音も、暴力に感じる事があります。

 

 

たぶん、あちこちのメーリングリストに入っていて、次から次へと送られてくる情報を前にして、体が拒否反応を起こす場合があると思います。

 

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

その拒否反応は「いのち」の叫びです。大切にしてください。

 

もう一つ

 

言葉がでない時、言葉がでない人は、意志を失っているのではありません。

 

加齢や事故などによる言葉の障害が起こっても、人生の終わりではないし、「ライフ(いのち・生活・人生)」の終わりではありません。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

 

言葉の重さ、言葉を使うことのつらさを感じつつ書いています。

 

 

最後に、デジタル・コミュニティ(@cdnode.com)の仕掛け人の石塚さんは、「メーリングリストの書き込みは、一人のつぶやきや独り言のようなもので、本などの紙のメディアの文章とはちがう」と行っています。

 

 

●●●●文章の混乱●●●●

 

確かに、私の書き込みが読みにくいところがいっぱいあると思います。、内容的には、外に出せないお粗末なものも、いっぱいあります。傾向としては、同じ事を、言葉を換えて二度言うというクセがあります。半分に削ることができると思いますが、これは、理由があります。

 

文章を考えている自分がいて、書き込みをしているときにそれを見ているもう一人のサブ・パーソナリティーがいて、同じ内容の事を別の言い方の文章が、一瞬にして聞こえてくる時があります。

 

たぶん、自分の中の「普段の書き手というサブ・パーソナリティー」とそれを手助け する、「言葉好きのもう一人のサブ・パーソナリティー」がいて、二人で書いている のかも知れません。それに、「上位のセルフ」が入るときもあるみたいです。その時 は三人の共同作業かも。「色即是空、空即是色」という言い返しにつながるか も????

 

二秒ぐらいの間に、すごい量のメッセージが飛び込みます。入力に数分かかります。 (私はキーボードでの書き込みは、頭に入っているカナ配列のキーのブラインドタッ チでですから、手で書くよりもはるかに早いのですが)

 

 

 

いま書いたのは、うまく書けるときです、

 

 

●●●●どもりだったかも●●●●

 

実は書けないときがあるのです、二人の書き手が協調できないときです。書いていると、もう一人の書き手が「こんなんではダメだ」と、手が止まったり、別な言い方をして、ストップさせるのです。

 

話をするときにも、この現象は起こるときがあります。

 

私は、子供の時から、言葉がなかなか出なかったようです。喋ろうとすると、いわゆる「どもり」の状態になることがありました。音が作れないのではなく、同じ言葉を二度言ってしまうのです。

 

誰の中にも多少そういう傾向があるのですが、

 

「はじめまして」といおうとすると、「はじめ、はじめま、はじめまして」と二回か三回言ってしまいます。

 

言いかけて、すぐに言い直す傾向です。

これが、今までの書き込みに反映しているようです。一度は読み返して、短くしているのですが、それでも、ながくなりました。今回も長くなってしまいました。ごめんなさい、

私の書き込みは、私のサブ・パーソナリティー達の共同作業だと考えてください。

 

 

中野さん、それから女性のみなさま、それぞれの「内なる女神のこころ」とよい関係が出来ますように。

私の場合は、ジェンダーはあまり、ハッキリしていない、女性に近い中性かも、でも、ときどきやんちゃな「子供がでてくる」

 

それから、男性でも、内側に「女神のような心」はあります。このメーリングリストには、けっこう「女神傾向」の強いひとが集まっているとおもいます。

 

では、

On Wed, 10 Jan 2001 02:42:21 +0900

平野 慶次<1-yoshi-hirano@mpd.biglobe.ne.jp> wrote:

 

中野ようこさんへ

 こんにちは!初めまして!だと思いますが、もしお会いしたことがあったりしたらば(お会いしてても不思議と思えません)、お許し下さい。小田さんとは二度お会いしお話しさせて戴きました。昨年もお会いしました。「女神たち」の個展の折りでした。本も後日購入しましたが、「女神のこころ」のことは知りませんでした。情報をありがとうございました。しかし残念ながら当日は伺えません。小田さんに是非伝えてください。私たち家族が今年九人家族に増えることを。 そして会いたいな!!!と伝えて下さい。

 

京都の「テラ」での展覧会場でしたら、お目にかかっているかと。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。ご家族が9人というのは、にぎやかなことでしょう。まゆみさんは「女神のこころ」の講演会の後、京都市内のお寺で若い方たちと瞑想の会をされるそうです。私は翌日帰らねばなりませんので残念ですが・・・お伝えいたします。

 

ハリーさんの『女神のこころ』は見事な写真集+お話です。そこに載らなかったアファーメーションなどを講演会ではご披露いただく予定です。

 

でも、どうも私の感動することを

皆様にお伝えするのがとても下手なようで、困ってしまいます。

特に岩崎さんや皆様が

書かれるような明晰な文章は

読むのも一苦労というぐらい、

書くのはできません。

つまり不勉強の弁解、怠け者の愚痴ですね。

~*~*~* ~*~*~*~

中野ようこ

~*~*~* ~*~*~*~

ARTemis

http://www5a.biglobe.ne.jp/~artemis/

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From: Etsu20@aol.com

Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0266] (I" 女神のこころ」に参加します。

  中野ようこ様

 

 はじめまして。山浦恵津子です。

 ようこさんのお顔は以前からいろんなところでお見かけして、存じておりますが、ご挨拶するのは初めてです。 19日、ホビット村での「女神のこころ」の集いには参加させていただく予定ですので声をかけさせていただきま

す。

 小田さんのことは野聖源プロジェクトの木村理真子さんに教えていただきました。 「湾岸戦争のとき、無差別の破壊行為に対して無差別の親切運動を起こした」という本がありましたね。(私はい いと思った本はすぐ人にあげてしまいますので、今手元には無くて題は失念してしまいました。ごめんなさい) その絵を小田さんが書いていらしてとても惹きつけられました。 それで一昨年の銀座であった『女神たち』の出版記念展覧会に参加させていただきました。 その時ようこさんが司会をしていらしたでしょ。 

 実は、昨年ハワイの「女神のワーク」にも参加させていただく予定でしたが、他の用事と重なってしまいました。 

 それでは19日にお会いするのを楽しみにしております。 

                山浦 恵津子Date: Sat, 13 Jan 2001 22:07:47 +0900

From: yoko nakano <yoko@jca.apc.org>

Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

 

Date: Sun, 14 Jan 2001 00:03:48 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0268] いのちと女神とホリスティックの関係

中野ようこさん、

 

「女神のこころ」についての、説明をみんなに紹介してくれますか。どうして、「女神」なのか、ようこさんの考えをシェアさせてください。

 

日本は、「宗教」は、本音の部分では、「差別語」かもしれません。「なんか宗教みたい」という発言は、よいイメージをもっていません。「女神」というのも、宗教?というのが普通の反応かも知れません。

 

 

一般論ですが

これは、西洋での「女神の運動」は対「男性型社会」にたいする運動の歴史ともつながっています。

一般意味論の視点でも、人間は、 manなのです。womanとは違います。

 

議長さんは chairman です。Godは、男の神様です。

 

本当に神様には性別があるのでしょうか??など、

人間を産むのは、母親ですから、神様は女性であつてもおかしくないのに全知全能の神は、男性なのです。

 

どうして、などなど、

 

急ぎませんから、お願いします。

Hal

Date: Sun, 14 Jan 2001 11:30:29 +0900

From: 岩田幹夫

Re: 水口さんへ 21世紀の書き込み「時代」

岩崎さん、水口さん、皆様

もしよかったら、最後までお付き合いください。終身雇用がなくなり、窓際族がなくなり、リストラという首切りがあたりまえになってしまうと、会社で中途半端に働くということは許されなくなってきたように感じます。企業に勤めるものとしては、とことんプロフェッショナルとして企業の仕組みを利用して、利益を得て、自己成長につなげるか、そこそこ働いて、将来のリストラに備えるか、どちから極端な選択を迫られているような感じがしています。管理職になって、取締役を目指しても厳しいし、リストラになったら家族にとっても厳しいことです。だんだんほとんどの人と家族が疲れてきています。優秀かつ一所懸命働く2割の人が残り8割の人を犠牲にして利益を得る企業のしくみは、どこか自然に似ていて、厳しいなと思います。自然が作り出した人間が発明した資本主義社会も自然の一部です。自然の法則はわかりませんが、自然の法則に則ったものだけがこの世に残るのでしょう。そして、生き延びようという遺伝子の本能に忠実に企業も生き延びよう変化、進化していくでしょう。私たちの祖先は、地球環境の変化によって絶滅した生物ではなく、生き残った生物です。その時々の知恵が自分の本能の中にインプットされているはずです。最終的な生き延びる真実の答えは突き詰めると1つだと思います。機械的になっていくほど、自然の法則からはずれるので、いつか絶滅するでしょう。今の冷たい感じのする機械は、人間型ロボットになって、それなりの人間くささがでるでしょう。そして、どんどん人間が製造業から消えていくでしょう。21世紀に生き残っていく人間は、人間しかできないことをする人ということになるのでしょうか?

 

今年の成人式では、とってもおばかさんなお子様たちが20歳を祝ってもらいました。日本という国が生き延びるようにがんばろうと思うおとなが自分の周りにいない子供たちがほとんどなのではないでしょうか。有史以来、国を、故郷を家族を守ろうとして頑張ったご先祖様たち創業当時から企業を支えてきた先輩たちに申し訳ないです。ご先祖様、先輩たちは、いまのこの国を憂いて、悲しみ、そしてくやしく思っているのではないでしょうか?

 

岩崎さんのいう大きな流れがみんなの中から自然に湧き出てくるときを敏感に感じて、時代に逆らわないようにして、企業の中で自分も、会社も生き延びることができるよう頑張ります。

 

このメーリングリストの中にも企業でお勤めの方がたくさんいらっしゃって、企業で仕事での成果をあげながら、自分の活動をされていると聞いています。21世紀どのように、企業が個人が生き残っていくかどのようにお考えか、もしよかったらご教示願います。

 

岩田幹夫

 

On Sun, 14 Jan 2001 00:03:48 +0900

"Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> wrote:

 

> 「女神のこころ」についての、説明をみんなに紹介してくれますか。どうして、「女神」なのか、ようこさんの考えをシェアさせてください。

勇気を持って、お言葉に甘え、長文となりますが、書いてみます。(ごめんなさい、一般意味論に関してのレスはとてもできなかったですが)

 

>

> 日本は、「宗教」は、本音の部分では、「差別語」かもしれません。「なんか宗教みたい」という発言は、よいイメージをもっていません。「女神」というのも、宗教?というのが普通の反応かも知れません。

そうなんです。

私自身、数年前は「女」も「宗教」も毛嫌いしていました。「人は変わるもんだねぇ。」とからかわれています。たぶん、「すごい」と思える体験があったから・・・。でも、その体験をしたのは何故だろう???「私」がやろう、と決めたことだから、私なんだけれど・・・。考えていくと、どんどんわからなくなってしまいます。

 

「宗教」「神」については常に議論を呼ぶところです。では「アニミズム」と言ったらどうでしょう?やっぱり同じ嫌悪感がわくでしょうか?

私はそれほどでもありませんでした。

このあたりはみなさんの感じをお聞かせいただきたいところです。また、目にみえない力、一人ではない何かの力、と言ったら、みなさんは何を想像されるでしょう?

 

超宗教、大いなる力、

いろいろな言い方で手垢にまみれた「宗教」から脱皮しようと試みていらっしゃる方がいらっしゃいます。どういう言い方で「自然界のいのちの源」「宇宙レベルの生命の源」を表現できるのでしょうか?

みなさんだったらどうおっしゃいますか?

自分の核にありもっとも遠い「いのちの源」について。

 

#####

曹洞宗の宗務長がおっしゃいました。

「ご存知のとおり、日本の仏教会は西本願寺派と・・・」つまり今は利権争いで大変で、そこのところご理解を、ということ。それほど穢れきっている。

#####

お正月に女性の宮司さんとお話をして、

神社本庁がいかに利権で動いているか、

また、宮司が巫女に・・・、

そんなことに耐えられず独立するのだ

というお話を伺いました。

#####

私の存じあげている

井上ウィマラさんは日本の仏教に嫌気がさし、結局ミャンマーで修行なさって、

ついには還俗なさいました。

多くの人々に「その」すばらしさを伝えるために、そして自分のために袈裟を脱ぐ決意をされたそうです。(彼の著書がもうすぐ春秋社から『呼吸の癒し』として出版されるようです)

文頭の「その」というのが宗教(仏教)なのですが。

 

日本におけるキリスト教はわかりませんが、父権社会をしき、戦争の歴史の2000年でした。世界では宗教戦争、経済戦争、イラク制裁・・・。

 

日本での「宗教」はカルト同様

腐れきっているのでしょう。

(一部を除いて。)

 

キリスト教以前の原始宗教の時代、

印刷技術のなかった時代の事実は

封印されてしまったことも多々あるようです。文字で伝わらない数々のこと。

文字のないハワイを始めとする世界各地の文化。雅楽の世界も口承でしたし、

民族芸能の分野では書き記さずに人伝えにするものでした。このことは12月にNaomi.Saitoさんが書いていらしたことと関連するかも。

 

 

中近東で出土された最古と言われる土偶は女でした。女のシンボル、胸も腹もでっぷりで、

決して現代の美的センスにはそぐわないでしょう。ギリシャ神話に登場する女神の像は

男性たちの眼を通してできたものかもしれません。

 

封印された文字のなかった女神の時代、紀元前5000年。キリスト教の時代、魔女狩りで起きたことは?私の興味を抱いているのはその抹殺、封印された「女神の文化の智慧」なんです。

私の「内なる女神」が呼ぶ感覚かもしれません。

 

 

アナトリア文明、「女神の時代」には武器の出土がありません。長らく平和な時代が続いています。

5000年の間戦争がなかったとも言われています。その辺のことは安田喜憲さん(環境考古学者、日本国際文化研究センター助教授)の著書『大地母神の時代』(角川)、

水上洋子さんの『女神の時代』(星と森)などに詳しく書かれています。

 

> 一般論ですが

> これは、西洋での「女神の運動」は対「男性型社会」にたいする運動の歴史ともつながっています。

> 一般意味論の視点でも、人間は、 manなのです。womanとは違います。

これがひとつのブロックになっているようです。(勉強したわけではないので、間違っていたらすみません)いままでのフェミニズムの動きでは「男女共同参画」が重要視されています。男社会の中で女はそのリズムに乗ることに必死でした。肩パッド入りのスーツを着て、出産後1ヶ月で復帰。「これだから女はダメなんだよ」と言われないために。ジェンダーの問題が性差を取り払うことに注意をおきすぎたのかも。男中心の社会を女向きに少しずつ変えていくのも大切ですが、競争原理をそのままに女を男並にしても、と感じている私です。(それが母性神話を復活させ、女性の社会的地位を低めるとするのがフェミニストの意見のようですが)※ウィメンズ・スピリチュアリティと呼ばれるものが「女神の復権」と近いのかもしれませんが、私はあんまり本を読んだりしていません。

 

女の性を祝福し、女であることに喜びを感じる。(男もその性を祝福すべきでしょう)

岩崎さんの言葉で「生命体の歓喜の躍動」ですよね。

 

でも、「男の性を満足させる女の性」という構図はいつからできあがったのでしょうか?

 

宗教とは直接の関係がなくとも、

政治決着にしろ、経済理論にしろ

西欧の価値観にのっとっているのでは?

(父権社会、競争原理などなど)

この価値観の支えとキリスト教は無関係でしょうか?私には漠然と深いつながりを感じます。

>

> 議長さんは chairman です。Godは、男の神様です。

>

> 本当に神様には性別があるのでしょうか??

観音様は女性。弥勒菩薩は?

マリア様は女。

性は不要でしょうか?

ただ、私の「女神」という場合、一神教ではないし・・・・。

 

> など、

> 人間を産むのは、母親ですから、神様は女性であつてもおかしくないのに全知全能の神は、男性なのです。

男を産む女。でも女だけでは産めません。

女神たちは全知全能ではないですよね。

破壊のカーリー、鬼子母神、ダキーニ、

女神様は善も悪も抱きかかえ、変容させていく力を持っています。大地の女神の名をガイアと呼びますよね。

アマゾン、これはアマゾネス。

紀元前には女神の文化がたくさんあったようです。

 

太古の人々より私たちの方が進化しているとは思えない昨今。科学文明の発達により失った「生物的本能」。女の人は「出産」の機会もあり、

女のカンが鋭い、とされるのも多少その辺の事情かも。

 

生物の多くが男・女のふたつの性で新しいいのちを産むのだから、「おとこ性」と「おんな性」のバランスの悪さを整えたい、それが「いのちを育む社会」となるのだ、と思っています。男も女も、それぞれにふたつの性を兼ね備えているように思います。男の中の「おんな性」や女の中の「おとこ性」。

 

(そんなことをじっくり知りたいという欲求から、この春より「女神21」というプロジェクトをスタートする予定なのですよ。)

 

長々と読んでくださってありがとうございました。

 

~*~*~* ~*~*~*~

中野ようこ

~*~*~* ~*~*~*~

ARTemis

http://www5a.biglobe.ne.jp/~artemis/

このメーリングリストや母胎の cfnode.comには、さまざまな人材がいます。意見や考えを出せと言うのは、無理でしょうが、アイデアやヒントは、あると思います。

 

私は、人類には平和に生きていく力も資源もあると思っています。問題は、意志といおうか、人類のコンセンサスが形成されないのが問題なのだと思います。持てる側が、持たない側にどれだれ、人類の富をシェア出来るかと言うことです。

 

現在のグローバルスタンダードは、世界企業のためのスタンダードであって、人間一人一人の為になる標準ではなく、世界企業が、それぞれの個別文化や小さなビジネスを蹴散らして富を集中化するという仕組みです。

日本の企業の多くは、そうういう世界企業の意図に骨抜きになってしまっている。

 

人間の為のホリスティックなグローバルスタンダードが必要です。

 

軍事産業のお金と技術を、世界中が減らしてゆくことは可能です。食べるものが余っている国が、すくない国に回すことも、意志があれば可能です。

 

公正な支払い(フェア・トレード)を

 

くわしい事は、今回は、省きます。

 

 

「変えられない」「変わらない」と信じているから変えられないのです。宇宙の法則は、変化することにある。「かわらないものは何もない」日本の場合、企業が変える事をいつまでも後回しにしてきたこと、そして、国民がマイナスの状況が「かわらない」と信じ続けているからだと思います。突破口(ブレークスルー)は、みんなの意志(コンセンサス)にあると思います。

 

この部分を、こういうインターネット上でやり取りしてゆく意味があると思います。いままで、そういう意図で、私個人で、ボランティアミニコミを出したり(1975位?)、ニテフィの始まる前から草の根BBSを始め、通信をつかったりして発信をしていました。このメーリングリストの維持もボランティアとしてきたのですが、正規な形で組織に雇用されていない私の経済状況もさらに厳しくなってきています。

 

(;´_`;)(;_;)(-_-;)

 

 

私個人の二十一世紀にやってみたいことですが、のてんぼうですが、厳しい生活の中にいるみなさんに、「ライフ(いのち・生活・人生)」を守るホリスティックな心理学である(サイコシンセシス)や「ホリスティック・ヘルスとのワークショップ」を展開してゆくことで、みなさんの体と心の健康に貢献して、

困難な時代に共存してゆく事が、活路=突破口(ブレークスルー)のように思います。

Date: Sun, 14 Jan 2001 19:05:55 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0273] Re: いのちと女神とホリスティックの関係 To: ml-holistic@cfnode.com

X-ML-Name: ml-holistic

ようこさん

書き込みありがとうございます。

 

 

日本の宗教組織の諸問題は、

日本人に宗教の本質を伝える人がすくなかったからですね。

 

みんな、形と儀式しか教えていない。

それと、たたりと御利益しか、

反面教師集団かも、

(臨済宗には、けっこう理解不能の反骨の人がいますけど)

 

でも、本当のすばらしい「星のような人もいます」忘れないでおきましょうね。

 

ヨガナンダの自叙伝に、彼が若いときに、

インドのお祭りで、本物でないグルや宗教者がいっぱいいるのに怒り、ヨガナンダの師であるユクテスファーに、怒りをぶちまけたら、

注意されました。

「確かに、あっちにもこっちにも、本物でないグルや宗教者がいっぱいいる、しかし、そういう人がいる事が、わずかだが本物のグルや宗教者がいないという証明 にならない。」

 

そうですよね、数グラム=カラットのダイアモンドを取るのに、何十トンもの原石を掘る、

 

まあ、宝石店に強盗にはいる合理的な人?がいるわけだ、

 

宗教組織やカウンセラーに行く事は、向こう見ずの勇気の人のする事かもしれません。

 

 

世界で一番偉くない威張らないお坊さんは、「自分で探しなさい」と言っている。「自分の先生が間違っていることもある」から、勇気をだして、間違いを指摘することもできたらしたらよい。しなくても良い。「離れること」も間違いではない。

 

 

とダライラマは言っています。

彼の「ダライラマ、他者と共に生きる」春秋社は、ホリスティックな視点の本で、もっともすぐれているものと思います。お寺や学校やカウンセリングセンターは、もはやこころの教育の場ではない事がある。

 

 

中近東で、出土した女神の土偶は、私も好きです。食べ過ぎて太っているのではなく、妊娠している女性ですよね名前は、イシスでしたっけ?

 

女神21に

『女性の「spirituality(精神性)」を社会に生かすプロジェクト【女神21】』とすれば

良いかも知れませんね。

 

 

そういうタグをつければ不必要な抵抗をおこさないで済む。

Masaharu Iwasaki (Halstar)  

Date: Mon, 15 Jan 2001 10:11:23 +0900

From: yoko nakano <yoko@jca.apc.org>

Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0276] Re: マリア

To: ml-holistic@cfnode.com

X-ML-Name: ml-holistic

 

平野様、

いろいろ教えていただき、

私には本当にありがたいです。

On Mon, 15 Jan 2001 00:29:26 +0900

平野 慶次<1-yoshi-hirano@mpd.biglobe.ne.jp> wrote:

 

>  キリスト教のこと、というと日本ではかなり誤解されている理解や印象があるようです。あらゆる宗教の歴史に漏れずキリスト教も随分ひどいことをしてきた過去はあると思います。神学上の議論の訴状にのったこともあり、長期にその論争はありました。マリアを神の母と呼ぶならば、マリア自身も神ではないかと。この議論は今のところマリアは神ではない、と決着しています。また神の性別についての見解は一般に男性となっていていますが、マリア信仰は根強くあります。マリアを神の女性性の顕現だと言う人もいます。

確かに、南米やトルコでもキリスト教伝来のおり、マリア信仰は広まったお話を伺ったことがあります。男性神はなかなか根付かなかったという歴史があるようですね。異なる宗教はお互い理解不能となるのでしょうか。

 

>  ブラジルのパウロ・コエーリョという人がいます。「アルケミスト」「星の巡礼」は割に知られていますが、「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」という本があります。角川文庫ですから、入手し易いと思います。この本のテーマは「愛」ですが、その愛を語らせ、行わせているのは、神の女性性の顕現としてのマリアだと言っているように思います。とても美しい話です。是非お読み下さい。

ありがとうございます。

読んでみたいです。

中野ようこ

 

Date: Mon, 15 Jan 2001 13:17:49 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki" <pjc-iwas@aqua.biwako.ne.jp> Reply-To: ml-holistic@cfnode.com

Subject: [ml-holistic:0278] 聖母マリアと女神の関係 補足キリスト教も歴史が長いので一つではありませんね。ラテン諸国はカトリックであり、マリア信仰が強い。プロテスタントは、マニア信仰がカトリックほどない。しかし、底にはケルトの伝統があるのですが、、、

 

アメリカでは、女神信仰を持つ人は、プロテスタント系の人がおおいようです。結果かも知れませんが、、

 

つまり、不足している部分を他の文化から補充してくる、最近は、仏教を離れた、観音信仰もあります。

 

カトリックが画期的なことは、今までにやった十字軍で迷惑かけたこと、植民地主義の時代に行った、一方的な布教、土着文化の無 視、ユダヤ人や他のキリスト教団などに、正式に謝罪をしたのです。何百年にもわたっての過ちを謝罪したのは、歴史上なかった事です。

 

 

教団宗教にはなじめない私ですが、これは、すごいことです。イギリスやフランスなどが昔の植民地に謝罪をしてはいないですよね。(戦争で負けた国は、謝罪させられるという歴史があるけども、)

 

 

●●●●もう一度、マリア信仰●●●●

 

聞いた事ですが、

フィリピンなどでの、経済的に貧しい人達のマリア信仰は、献身的なシスターたちの姿とオーバーラップして売れ取られていると思います。食べ物をもらうよりも、値段 にしたら五円にもならないマリアのメダル(メダイ)に涙している、

 

これを聞いたときに、涙がでたのですが、書いていても、、涙がでてきます。

 

女性たちは、本当に救いをもとめているのでしょうね。まずしい国では、衛生状態も 栄養状態も悪いので、母親にとっては、自分の腕の中で何人もの子供が息を引き取っ ていった体験がある。食べ物が一食有っても、一日だけ苦しみが和らぐだけ、次の日 には、死んでしまう。食べ物以上に、そういう痛みに対しての救いと癒しを求めてい るのだと思います。

 

フィリピンの山岳民族も、女系社会の伝統が残っているのかも知れません。古代・伝統社会では、女性はの巫女は、神様とつながる人でもあった。

 

そういう意味で、世界各地の伝統的な女神信仰は、欧米の女神movementとは、内容も 質も違うと思います。欧米のプロテスタントの人達や無宗派に近い人達は、男性社会であり、女性も自己主 張がつよい。そして、ラテンアメリカ系の人と比べると、家族の繋がりが希薄です。 自己主張する教育を受けてきて、結果的に孤立している、そして女神に救いを求め る、

日本は、宗教儀式はある国ですが、宗教心のおそろしくない国です。そして、女性は、ご飯をたべている国ですが、すごく制度に縛られている精神的に、宗教集団にも家族制度にも、癒しとやすらぎは得られない。

 

内なる女神を見つける事になるのでしょうね。

状況は違うけども、女神様は、共に「癒し体験」を与えてくれる。人間の意識は、国や文化は違っても、深いところでは、内なる神様や女神様とつながることが出来る。これは、すばらしいことです。

 

それでは、日本の男性はどうなるのでしょうか、生理学的に、女性よりバランスの悪い脳を持っているし、神様の機能を内蔵していないので、女性より悪いのでは、

 

生身の肉体に、組織と世間体の行動原理をプログラムされた、逆サイボーグみたいなもんだ。

映画では、ロボットの体に、人間のこころというサイボーグだが、生身の体の、労働ロボットだ、

気がつけば、女性よりも、寂しくつらい事ですね。依存症(仕事・アルコール・趣味)にならないと生きていけないかも

 

意識が外側に向いている限り、気づくことはないかもしれません。

 

===================================

 

 

一連の女神の書き込みと、ホリスティック教育や医学との繋がりが理解できない人が、多いと思います。

 

ホリスティックな教育と宗教的な体験を結びつけてくれるのは、アサジオーリの創設した統合型の心理学「サイコシンセシス」だと思います。

 

また、シュタイナーとクリシュナムルテイのまったく違ったスタンスの間につなぎをつけてくれるのも、サイコシンセシスだと思います。

 

理解してみたいと思った方は「内なる可能性」「サイコシンセシス」を読んでみると良いかも知れません。

 

それから、内なる声をもとに、「フィンドホーン」をつくったアイリーン・キャディの本もお薦めです。

 

それでは、

Hal

中野ようこさんへ

 キリスト教のこと、というと日本ではかなり誤解されている理解や印象があるようです。あらゆる宗教の歴史に漏れずキリスト教も随分ひどいことをしてきた過去はあると思います。神学上の議論の訴状にのったこともあり、長期にその論争はありました。マリアを神の母と呼ぶならば、マリア自身も神ではないかと。この議論は今のところマリアは神ではない、と決着しています。また神の性別についての見解は一般に男性となっていていますが、マリア信仰は根強くあります。マリアを神の女性性の顕現だと言う人もいます。

 ブラジルのパウロ・コエーリョという人がいます。「アルケミスト」「星の巡礼」は割に知られていますが、「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」という本があります。角川文庫ですから、入手し易いと思います。この本のテーマは「愛」ですが、その愛を語らせ、行わせているのは、神の女性性の顕現としてのマリアだと言っているように思います。とても美しい話です。是非お読み下さい。 *〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

平野 慶次

e-mail: 1-yoshi-hirano@mpd.biglobe.ne.jp

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Date: Tue, 16 Jan 2001 07:20:27 +0900

From: "Masaharu (Hal) Iwasaki"

Subject: [ml-holistic:0279] 実践報告:命を体験することは難しくない

 

宗教的な雰囲気で、女神や命についての対話になってきています。今の対話は、背景を共有する人には、貴重な価値のあるものですから、ぜひ、続けてほしいです。

 

しかし、「用語」の関係で、あるいは、内容で「身近さ」を感じられなくなっている人がいてもおかしくないですね。

 

いくら言葉を尽くしても、、「ライフ(いのち・生活・人生)」についての体感をも たらしてはくれません。それが、言葉の宿命です。「地図は現地ではない」

 

●それで、私の所にある「命」についての体験の感想紹介します。

 

私は、非常勤で(;_;)すが、京都造形芸術大学というところで、ホリスティックヘル ス(体育実技)を教えています。たぶん、日本で最初で、他にはまだ無いと思います。 (はやく私にとっても、他の学生や一般の人にとっても、良い環境が出現して欲しい ものです。)

 

学生はたった八回しか授業を受けることが出来ませんが、さまざまな効果の感想が集 まってきています。

 

ひとつ紹介します

==========================

●この授業で学習したことは月並みだけれど自分の体に沢山不思議な仕組みがあった のだということです。生まれてから今日まで、もちろんこれからも生きている間は共 に生活していく自分の体だから、何でもわかっているつもりだったのに、授業で不思 議なことばかりおこるので、驚きと小さなショックをうけました。だから、人生や生 活に対してよりも、命に対しての意識がかわりました。命というと、とても抽象的な 意義で考えていたけれど、単純に人が動いて呼吸して、そういうものが命でもあると 思います。とてもとても単純だけど楽しかった。●自分自身のうちにある何かに向かって、行動したり、脳とか筋肉に語りかけたり、 内なる精神的な人間を知る授業だと頭でわかり、本当によかった。今の自分が悩んで いるからこそ、人間の解放がよくわかりました。気持ち精神的なものが勉強になりま した。悩んでいる人にはとてもいい授業だと思います。●身体は普段持ち合わせないリアリティを気づかせてくれます。意識は現実の中の身 体を見つめる眼を養いたいです。

  岩波新書「ワークショップー新しい学びと創造の場ー」

を巡って平野慶次編集

 21世紀の幕開けに中野民夫さんが書かれた表記の本が、岩波新書の一冊として出

版されました。岩崎正春さんが、アメリカの大学院で共に過ごした仲間として、本を

紹介して下さいました。とても時宜に適ったいい本がでたな、と思ったのですが、こ

の本をニューズレターで紹介することになりました。所謂書評では何だか本に申し訳

ないなと思い、メーリングリストの上で応答的書評の試みをしてみました。メーリン

グリスト上のことですから、既に詳細を読まれた方もおられるでしょうが、編集され

たニューズレター版でも再読して戴ければと思います。

 

平野:知育偏重教育が批判され始め久しいですが、新しい学力観(興味、関心、意欲)

   が大切であると言われてくる中で、参加体験型の授業などというスタイルが生

   まれて来ましたよね。更に、総合的学習の導入イメージで強化されたように思

   いますが、どうも「ワークショップ」じゃないような気がします。岩崎さんは

   そこら辺のことについて、どうお考えでしょうか?

岩崎:私は、同じ大学院 California Institute of Integral Studies にいたので、

   個人的に中野民夫さんを知っているし、たいへん尊敬していた人です。そのこ

   とは置いておきますが、仮説体験型や参加体験型の授業が語られて久しいです

   ね。そして、いまは総合的学習という言葉が使われるようになりました。「総

   合的なら全体的という意味?それならホリスティック教育だ!文部省も、変わっ

   たもんだ、ホリスティックになってきた」 はたして、そうなんでしょうか?

   私はホリスティックではないと思います。平野さんの言葉で言う「ワークショッ

   プじゃない気がする」と同じでしょう。言い換えると参加体験型は「ワークショ

   ップだったのでしょうか」「ワークショップなのでしょうか」それなりに「良

   くしよう・努力しよう」という動きは、さまざまな人達の間でありました。成

   果もあったと思います。これを考えるに三つの事を述べたいと思います。

   ひとつめは、「的」や「型」や「風」は本物の「敵」だということです。一般

   意味論の視点で言うと、「参加体験型授業」や「総合的学習」という「型」 

   「的」という言葉がついているのは、気をつけないと、本物ではありませんと

   いう証拠」です。「的」や「型」や「風」がいつになったら本物になるのだ!

   ということです。そして、物事を学ぶ上で、本当に参加体験しないで、身に付

   くかという疑問が湧きます。

   ふたつめは、成果をみんなでシェア(分かち合い)し、congratulate したか、

   ということです。参加者が体験したことを、自分のワークした作品(成果)を

   見せながら言葉で説明し、それに対して、指導者や他の参加者が、素直な意見

   を交わしたか、そして、一緒にワークしたことを祝ったか(congratulate)?し

   たかということです。この点が日本の今の学校の形態では、かなり難しいので

   はと思います。

   3点目は、21世紀の先生の役割についてです。一言で言えば、21世紀の先生

   の仕事は知識の切り売りでは成り立たないということです。トフラーが「未来

   の衝撃」で話していたことが現実に起こっています。今コンピュータインスト

   ラクター達の間で「一番教えがたいのは学校の先生」というのは、定説です。

   すごいプライドがあり、知らないことや失敗することに抵抗をしめすらしいで

   す。問題は、「未知のこと」や「恐怖」に面したときにどのように取り組むか

   という部分です。ホリスティックな視点としては大切なことです。

   中野民夫さんの「ワークショップ」という本は、21世紀の教育に対してのヒ

   ントを大勢の人達に示してくれています。言い換えると、「20世紀型の先生

   のストレス」を救ってくれるとも言えます。これからの教育の問題点は、先生

   以上に才能をしめす学習者や学習に時間がかかる学習者にどう接するかです。

   つまり、いまでいう Special Education の部分です。そして人間の能力を補っ

   てくれる道具をどこまで許すか?という問いですね。

平野:岩崎さんのお考えがわたしの問い掛け以上に膨らんだお答えと思いますが「ワ

   ークショップじゃない気がする」という点で、きちんと答えて戴けたようで嬉

   しいです。ご指摘に関してですが、人間の「知」というものは不思議な性質が

   あって、必ずしも体験的でないものもあるように思います。学生時代のわたし

   の専攻は正にそういった領域にあるものでした。数学なんですが、そもそもわ

   たしが数学を選んだ理由は、得意だったこと、好きだったことが基本的理由で

   すが、ひとつどうしても外せない理由がありました。それは、数学のもつ純粋

   論理みたいなものと世の中の接点をどう構築すれば良いのかという課題をもっ

   ていたからです。残念ながら答えは見つけられませんでした。

   体験的知と論理的知とは区別する方が解りやすいと思いますが、ワークショッ

   プの領域は体験的知をその領域としているというのはいささか乱暴なのでしょ

   うか。

   もう一点、3点目のご指摘で思い出したのですが、奈良に「たんぽぽの家」と

   いう障害者の自立を支援することを核に、様々なバリアフリーを実現すべく活

   動している団体があります。そこに「たんぽぽ憲法」なる決まりがあり、その

   一つが正に岩崎さんのご指摘の意味に相応しい決まりなんです。「人は失敗す

   る権利がある」という風に書かれていたと思います。世の中にはかなりこの権

   利を認めていない人が多いと思うのですが、この辺りに「未知のもの」に接す

   る態度を規制するような要因があるような気がするのですが、如何でしょうか。

岩崎:体験的ではない知識に対して否定的ともとれる書き方になってましたね。私は、

   純粋理論や純粋知の存在を否定するつもりはありません。純粋知としての理論

   を積み重ねるという大切さは、まったく否定しません。むしろ、日本の予備校

   に支配されてしまった進学教育の現状で、純粋な「純粋知」「純粋理論」が育

   ちにくくなってしまったと感じています。「今の受験教育が何の役に立ってい

   るか」という問いかけに対して、『一番よくある答えは、若いうちに「知的な

   トレーニング」をする事である。』と考える人がいるのには、異論を唱えたい

   のです。

   実は、数学に置いても、ワークショップはあると思います。深夜の衛星放送で

   外国の新鋭の数学者が、「時間」についての講演をワークショップとして観衆

   に示していました。「時間はどのように捉えられているか」などなど数学や理

   論こそ、ワークショップ形式で教えられる事の方がふさわしいと思います。たっ

   ぷり時間をかけて、対話を積み重ねながら純粋理論を学習してゆく。現実の日

   本では、細切れの一時間60分で、学生全員が理解できているかが確認されな

   いまま、「理解されたとみなす」という教育がすすんでいるのです。この「み

   なす」ことが、日本の文化(教育)の悲劇の原因だと思います。もっともホリ

   スティックではない部分だと思います。

   ワークショップ形式の学習で一番すばらしいのは、平野さんの書かれた「たん

   ぽぽ憲法」にもあるように、「人は失敗する権利がある」という部分ですよね。

   世の中は、つまり日本の世間は、「人は失敗する権利がある」を認めないそし

   て、「失敗したら叩く」のです。日本の現在の世間とはマスコミ先導型です。

   「マスコミは、正しい世間の目である」というとんでもない誤解はなんとかな

   らないのでしょうか。自分の目で体験したことまでも信用しないのです。

   例えば{六面体(箱)を考えてください}という問いに数学者は、点と線で箱

   を書く、職人は、厚みをどうするか、どのように材料を組み合わせるかを考え

   る、電気や機械の箱を作る人は、中に入れるものの配置を考える、デザイナー

   は、外側のイメージを考える、電気やコンピュタ関連の人は、スイッチの位置

   や意味を考える、などなど。そういう人によって様々な受け取り方のバリエー

   ションがあることが大切であり、自分の考えや体験は、自分の世界の反映した

   一つであることを知る、勿論失敗作であることも問題にはされないのです。

平野:話が随分拡がりましたね。わたしも数学がワークショップで学べるという点に

   異論はありません。つまり体験的知を越えてワークショップが可能だと岩崎さ

   んもわたしも考えているようですね。対話を重ねて純粋理論を学ぶことが大切

   だとの指摘も嬉しい響きがありますね。小学校や中学校レベルの算数・数学は

   ワークショップ的アプローチが向いているように思います。小学校の1年生の

   問題に次のような形ものをよく見掛けます。

   (問題)次に並んでいる数字の空白を埋めなさい。

    ? 1、( )、3、( )、5、( )、7、・・・

    ? 1、( )、2、3、( )、8、・・・

   ?については大抵の子どもらはすぐに答えます。?については殆どが答えられ

   ません。?の答えは小学校では、2,4,6としています。?の答えは1,5

   となります。実は?はフィボナッチ数列(大学で数学をする人以外は殆ど知ら

   ないと思います)になっています。これをワークショップでやると色々な答え

   が出てきます。?の例で言いますと殆ど無限に答えを作れます。実は小学校で

   は数列のルールを規定していないのです。ですから、1,3,5,というのも

   答えになります。4,8,12,や2,2,2,も大丈夫です。もしワークショ

   ップでこの問題に取り組むなら数列のルールと答えの数字の両方を考えてみる

   というのが課題として設定されることになるでしょう。これは演繹的アプロー

   チです。理論を組み立て拡げる代表的な方法は帰納法と演繹法ですが、演繹法

   の方が解りやすいので、ワークショップには向いているだろうと思います。

   またまた余計なことに話がそれましたが、そろそろ中野民夫さんの本のことに

   話の照準を合わせましょうか。先のわたしの問い掛けの意味はワークショップ

   の可能性と限界性にスポットを

   当てることでした。かなり話が拡がり論点がぼやけたようにも思いますが、ワー

   クショップに向くことと向かないことの両方があるという点については同意し

   て戴けてるように思いました。

   そこで、中野さんの本の文脈に則した言い方ならどうなるでしょうか。ワーク

   ショップの素晴らしさそのものについて実に上手くまとめて戴けていますが、

   限界性や不可能性については発展途上であることに集約しているように感じる

   のはわたしだけでしょうか。

水口:途中から割り込みますが、中野民夫さん陽子さんの事はわたしも存じています。

   約20年前にアクエリアン革命研究会という自主講座で同席していました。

   最初はワークショップという言葉の響きがずいぶんとなつかしく感じられまし

   た。そしてなんで今ワークショップが話題になっているのか解せませんでした。

   しかし、第4部ワークショップの応用、を読んで非常に身近な問題であること

   に気づかされました。意外にもわたしはワークショップ的要素を身に付け、そ

   してそれを応用しながら仕事をしているようです。それは情報を共有すること、

   意思決定のプロセスを共有すること、ベースとなる共通の体験をする事等、自

   分の役割の範囲でですが実行するようにしています。そうしないと気持ちが悪

   いし、片手落ちのような気分になります。ただし効果はよく分かりません。自

   分のワークショップ体験がただ過去のものでなく、今も生きている事を教ても

   らったように感じます。どうように「場」に対して関わるのか、ワークショッ

   プとはそれに対する提案、問題定義なのでしょうね。

平野:ワークショップの現実的効果という側面からのお話と思いましたが、効果のほ

   どについてもう少し書き込んでみて貰えませんか。例えば仕事上のトラブルが

   減ったとか、人間関係が構築しやすくなったとか。

岩崎:「ワークショップの可能性と限界」ですね。これは、水口さんの指摘でもあり

   ますね。ワークショップ的要素を身につけて応用して仕事をしているのは、水

   口さんが、いい仕事をしているという事ですね。目的志向型の組織(ミッショ

   ン思考)だからでしょうね。営利企業は、そういう組織ですから、みんなが 

   「目的に対する意志の共有」がないと成り立ちませんね。「情報の共有」「意

   志決定のプロセスの共有」「共通体験」「自分の役割の範囲での実行」などが、

   確かにワークショップの大切な要素ですね。営利組織では、意志決定役員がい

   て、他は決定プロセスに参加できないと思うのですが、この部分が、組織の最

   終目的や性格により様々ですね。そして、この「プロセスに参加できる」か 

   「その場にいられる」という事が、参加者の生き方に影響を与えると思います。

   そこで、ワークショップの必要性と可能性は、いまの日本の社会では、大いに

   あると思います。中野さんの本はすごく良い影響を与えてくれると思います。

   彼は広告会社で、自治体や企業に対し「企画のプロセスを援助する」という仕

   事をしているので、会議のセッティング・ダイヤグラム(フローチャート)を

   使った説明、など本当に、実際的ですね。不可能性や限界は、確かに、未知で

   しょうね。こういう事を考える上で、「日本語」は結構やっかいな道具だと感

   じています。話の核心を避けて、トラブルになる事を避けるという言葉です。

   同じ事を英語でやるのと日本語でやるのでは、随分結論のでかたに違いがある

   ようです。

   この意志決定や建設的な討論の進め方について、いろいろな市民運動にかかわっ

   てきた平野さんはどう感じていますか。よい意見がでてくるまで、忍耐強く 

   「待つ」のでしょうか。

平野:現実的効果はあらゆる場面で恐らくあると思います。市民活動に関わる中で、

   様々な意志決定プロセスを経験しています。そんな中で民主的な解決が唯一の

   方法だとする多くの人に出会いました。そういう人達は、結局は少数者を切り

   ます。そんな場面と沢山遭遇している内に、民主主義に愛想が尽きてきました

   が、その代換え案として、有効な方法が正に「ワークショップ」でした。しか

   し、現実場面では100%ワークショップのようにはできませんでした。その

   理由は、市民活動の場合は大抵着地点が決まっているようなところがあるから

   です。むしろ、カリスマ的な方法の方が有効と感じることもありました。です

   から、正直なところ決定プロセスや建設的話し合いの場合ですらファシリテー

   トしながら、ナビゲートも試みることもありました。

   今は、「自己開示」が一つのキーワードになっています。何がやりたいかも大

   切ですが、何がやりたくないことか、という側面からアプローチし、最大公約

   数を見つけるようにしています。その意味では、辛抱強く待つという感じも確

   かにありますが、ただ手をこまねいて待つことはしません。

水口:現実的効果というか効用については、直接的因果関係的に説明できることはま

   るでないように感じます。と、いってもわたしがワークショップによくでてい

   たのはかなり昔なので記憶にないかもしれません。逆に本の中で注意点として

   指摘されていた「ワークショップ中毒」の気があったように思います。こっち

   が本当であっちはうそ、みたいに自分の属する社会へのなじめなさを正当化す

   る情緒的根拠として利用していた点があります。その点では逆に関係を悪くし

   ていたかもしれません。効果があるとするならば...場に対する関わり方、

   それが会議だったり、業務だったりして、それらに対する関わり方、策略的で

   なく、操作的でなく、強制的でなくても、素直に主体的に関われば、どんな場

   面でも、とは思っていませんが、何かが動くのではないかと思っている事のよ

   うです。平野さんの現実的効果とはどのようなものでしょうか?

平野:わたしにとっての現実的効果は?とのご質問ですが、最近考えていることがあ

   ります。それは、現実の線形性と非線形性についてです。平たく言えば、論理

   的に構築できる現実と、論理的に構築できない現実についてです。例えば二人

   の人間の関係を考えてみますと、どのような関係の人間なのかに依存的な部分

   (上司と部下、親と子など)と、個であるが故にその関係性に全く依存しない

   部分があります。前者の依存的部分の大半は論理的に構築しうると思います。

   後者は論理的に構築不能なものと思います。上手く説明しにくいのですが、人

   が何らかの行動をとる時、大抵の場合モチベーションがそのベースにあります。

   そのモチベーションが関係性に依存的であることは少なからぬ現実でしょうが、

   関係性から離れたものであることも珍しくはありません。論理的脈絡のない行

   動は他人には不可解です。しかし、共同作業でこの脈絡のなさを構築すること

   を可能にしてくれる有効な方法がワークショップではないか、というのがわた

   しの考えていることです。

   ですから、ここに落とし穴が潜んでいると思います。つまり、共同作業による

   結論について、その真偽は問われないことが多々あるということです。真偽を

   見極める必要はありませんが、その共同作業の輪にいない人にとってはやはり

   不可解さが強いものでしょう。最近では行政主体のワークショップが多く見受

   けられますが、公共事業などを行う場合数年前までは、公聴会なるものが開か

   れていましたが、それに取って代わるものとしてワークショップの手法が取り

   入れられているのです。住民主体に見せかけて、アリバイをより強固なものに

   してしまうのです。これが共同作業の落とし穴だと思います。

   ワークショップの効果をこのような形に消化しては、最早ワークショップとは

   言い難いと思いますが、世の中にはこうしたワークショップが多数あることは

   否定できません。

   話が少々それてしまいましたが、先に書いてました論理的脈絡のない或いは弱

   いテーマを扱う場合に特にワークショップが有効だと考えています。非線形的

   現実に対しとても有効と思います。ワークショップは、その共同作業の輪の中

   で、自己組織化を始めるからです。

岩崎:平野さんの「論理的に構築できるもの」と「出来ないもの」という二つの面が

   あるのは事実ですね。人間のモチベーションは、どちらかというと感情的なも

   のですが、その裏側には、しっかりとした合理的・論理的な基準が必要だと私

   は考えています。しかし、日本人の行動原理は、北欧的あるいはユダヤ的な理

   論的なものではないようです。これは、文化的な違いだと思います。日本の営

   利企業や行政の場合でも、感情的なものに左右されているようですね。

   日本でのワークショップでしばしば見られることですが、論理的な理解が目的

   であるワークショップでも、ワークショップの主催する人の論理的な意図が理

   解されないけども参加者同士の結びつきが強まり、「つながりが生まれる」と

   いう場合があります。共有体験を持つことは、ワークショップの大切な一部分

   です。しかし、それだけではないというのが私の考えです。「共有体験」と 

   「ワークショップ」を同一化しないことですね。

平野:何だか話をややこしくしてしまったようで、申し訳ありません。日本人の行動

   原理についてはよく解りませんが、論理的な意図を超えてしまうという点につ

   いてはその通りだと思います。現実の世界は、むしろ非線形的な事象に取り囲

   まれていると言えるのではないでしょうか。例えば、何か解決したい身の回り

   の出来事に出会った場合、その出来事の中から論理的に割り切れる要素だけを

   ピックアップし、整理し、答えを探すという方法で一見正しそうな解決を得る

   というケースが多々あるのではないでしょうか。ところが、実際には上手く解

   決できないということがままあります。正しいはずなのにと思いながら、正し

   くないかも知れない答えに逡巡することになるのでしょう。

   中野さんは、本のあとがきに、パートナーのようこさんとの関係性を究極のワー

   クショップと書かれていました。実はこの表現がとても気に入ったのですが、

   正に非線形的体験の連続とも言えそうな夫婦という関係性を上手く言い当てて

   いると思います。ワークショップのメタファとして我が身に深く突き刺さった

   ようです。お返事は戴きませんが、この点に対する感想を中野さんにも簡単な

   メールを送りました。

   さて、散漫ながらも「ワークショップ」を巡って、話を交換して来ましたが、

   最後に一言づつ発言して戴ければと思います。

水口:「論理的に構築できないもの」を意識化、言葉化するという事は胸、腰、腹に

   あるものを言語化することのように思えます。グループでそれができれば、そ

   してそれが共有できればすごい力になるでしょうね。

   最後に一言添えておきます。「ワークショップ」を読んで、自分が勤めている

   会社を自分の属する「場」として捉えるようになりました。そしてもうちよっ

   と違う仕事ができるかもしれないとも。それが様々な問題を経過させていく力

   のひとつになるかもしれないと。そんな風に思っています。

岩崎:水口さんの「胸、腰、腹にあるものを言語化することのように思えます」とい

   うのは、水口さんの捉える「人生の体験」のプロセスと捉えたらいいのでしょ

   うね。「言語で表すことが出来ない事は、グループで共有体験をすることによっ

   て、つまり、同じプロセスを体験することによって共有できればすごい力にな

   る」ということですか。

   最後に一言。例えば「会社」を自分の属する「場」として捉える、そういう視

   点はあたらしい展開をもたらすと思います。実は、体験をするのには、「場」

   が必要なのは、自明の理ですが、そういう「場」に対する理解が、教育界では、

   ますます少なくなるようにあります。これは、情報化社会(コンピュータ化)の

   社会全体のながれのように思います。つまり、映像化されたもの・言語化され

   た手段を通じて教育をすることが当たり前になってしまった。そういう時代だ

   から本物の体験を通じて学ぶという「ワークショップの基本」がますます必要

   になってくるのです。それが、この本の価値であると私はおもいます。

平野:概ねわたしの感覚も水口さんの評価や岩崎さんの評価に、通じているように思

   います。言葉のニュアンスなど、人それぞれの感覚にも拠りますし、同じなの

   か違うのかを問うならば、全く同じということはないのでしょう。少しずつの

   ズレや差は、同じテーマに共に取り組む中で、切磋琢磨しながら、近づいたり

   離れたりするのだと思います。こんな場合には、ワークショップの手法は極め

   て有効でしょう。

   ワークショップは、色んな可能性を秘めていると思います。瞬間的に人を巻き

   込む力も備えているように思います。マインドコントロールに落ちないように

   気を付けたいと思います。様々な可能性の裏に落とし穴が潜んでいることを意

   識したいと思いますね。

   長らくのお付き合い、ありがとうございました。

 

 約1ヶ月に渡りメーリングリスト上で意見交換したメールメッセージを対話風にま

とめてみました。如何でしたでしょうか。あまり本のことが判らない、とのお叱りを

戴きそうにも思いますが、この本が如何に多様なテーマを創出してくれているか、と

受け取って戴ければ良いなと思います。お勧めします。読んで、考えて、動いてみて

下さい。

予告していたように

日本人の行動原理について書きます。

 

一般論は、概念の遊びになると言う、危険性はあるのですが、

あえて書き込みます。

 

「日本人の行動原理」というのはまだ不確かなので

「日本語だけで教育を受けてきた人間」と言う方が正確だと思います。

 

日本語の壁 1.

 

日本語で話をする限り、日本語の特性が反映してしまいます。

一つは、敬語です。幸いにも、日本語の敬語が、時代を反映して

乱れてきたのは良いことであると思います。

 

 

相手の年令・地位・性別などで、同じ内容の事を表現するのに

違った言い方をしなければならないのは

見えない壁だとおもいます。

 

英語では Youですむことを

 

あなた、おまえ、○○君、○○様、○○、などなど

討論の内容意外にどのような言い方をするかという事に

かなり「気」を使ってしまいます。

 

特に、目上で社会的に上位にある人に反対意見をいう事は、

言葉の上でも、非常に、やりにくいことになります。

 

これは、ハングル語(韓国語・朝鮮語)では、日本語よりも

つよい文化的壁になっているようです。

 

 

私は、目上の人にも大学生に対しても、丁寧語を使うようにしています。

結果的に女性の話し方に近くなってしまいますが。

 

そのため「変な人」「変な先生」と言われたことがありますが、

 

日本語の壁 2.

日本語には、相手を傷つけないために(自分を傷つけない)、お互いに話の核心をそら しあげる

という、思いやりの言い方が強い様です。農村型の閉鎖型の社会では、人間関係のト ラブルが

ひとたびオープンに成ると解決がかえって難しくなるという社会です。

ですから、思いやりで、仲間をかばう(隠す)ことがあります。

時には公然の秘密として、みんなが「知らない(^O^)」をする事もよくあります。

 

おかげで、本質的な問題がなかなか表に出てこないので、いつまで経っても

問題の本質的な解決ができにくいようです。

 

 

「お出かけですか」

「はい」

 

「どうも」

「気をつけた方が良いよい見たいですね」

 

 

日本語の壁 3.

 

日本語の特性としては、なるべく不必要な言葉は入れなくても良いという言葉です。

英語は、 he, she, it, the, they, there,などは、きっちりと使わないといけません。

 

 

「私は岩崎正春です」という分を一部変えて

「私はカレーライスです」というのも正しい日本語です。

 

 

 

別に、人間の私が殺されて、肉がバラバラにされてカレーライスになったのではあり ません。

 

食堂などで「あなたは何?」と聞かれたときの答えとしては、

正しい日本語です。

 

つまり、正確に全部表現する英語などとは違うのです。

つまり、話しているときに、意味が曖昧な言葉を徹底的に

なくして話し合いをするという文化的な土壌とは違います。

 

 

 

以上の事が統合されると、日本語での会議は、なかなか何を話しているのか

理解がしにくい。そして、質問も、本当の質問ではない。

なんか、みんなが、勝手に独り言をいっている様に感じているのですが。

 

体験的に、同じ内容のことを、目の前にいる人の理解する言葉の関係で

日本語と英語で説明するという事をよくやったことがあるのですが、

なかなか同じように話せないのです。

英語の方が、直接的に、ものを生み出すのには

適しているように思えるのですが、、

 

最近の市民運動などでは、次第に、みんなの話し方が、丁寧語に成りつつあるのは

良い傾向だとおもいます。

 

 

会社関係はどうなんでしょうね。

 

ワークショップにおいて、どういう言葉遣いをするかというのも

その成果に繋がることかもしれませまん。

 

これで、私のワークショップへの最後のコメントとします。

 

みなさん、読んでいただきましてありがとうございました。

 

これにて、中野民夫さんの本「ワークショップ」に触発された共同の書評でした。

 

 

hal4life@joy.ocn.ne.jp